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András Schiff『Beethoven: The Piano Sonatas, Vol. 8』

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ハンガリー出身で世界的に活躍するピアニスト、アンドラーシュ・シフ。彼がECM録音にて2008年に完成させたベートーヴェンピアノソナタ全集より、こちらは後期の第30,31,32番を収録したディスク。

この3曲は作品番号のうえでもop.109,110,111と連なって発表されていることからもわかるとおり同時期に作曲されていて、作風に共通するものが多く見られ、特に当時のベートーヴェンの変奏曲形式への傾倒、フーガという技法の再発見が大きく反映されたものとなっています。

ベートーヴェンの音楽は一般的には厳つく剛健なイメージが先行しがちかもしれませんが、後期作品、特にこのピアノソナタ3曲には様々な経験を経て余計な角が取れた、懐の深さや優しさを持った個人の姿が刻印されているように思います。第30番第三楽章の主題や第31番第一楽章の全編におけるメロディーの流れの美しさ(これほど慈しみ深い音楽を私は他に知りません)、変奏曲という形式へ暗→明の展開やそれによって生まれるドラマチックさをあまりに見事なかたちで導入した第31番第三楽章(『嘆きの歌』のパートからフーガが開始される瞬間の文字通り暗闇に光が差すような感覚、そして終結部における光差す方向へ駆け出しその中に飛び込んでいくようなクライマックス感!)、そしてフーガと変奏曲形式への徹底的な取り組みを2つの楽章でそれぞれ個別に打ち出したチャレンジングな第32番と、ベートーヴェンのキャリアにおいて「傑作の森」と称される中期以上の高みを見せる後期の始まりに位置するに相応しい傑作揃いです。

シフの演奏は32番第二楽章の付点のリズムの部分が人によってはすんなり弾きすぎているように聴こえそうにも思いますが(ここには本人なりのこだわりがあるようです)、フーガの声部の絡みや変奏曲の変奏の切り替わりがクリアに耳に入ってくる丁寧さと音楽としての流れやしなやかさを感じさせる真摯なもので、そこにECM録音の豊かな残響も相まって品位や説得力のある録音作品となっている本作は、これらの楽曲を初めて聴く方にも他の演奏家の録音に馴染んでいる方にもオススメできる一枚です。