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LL

Ftarri Festival

面倒なので細かな説明は省きますがFtarri Festivalに行ってきました。二日目だけ。

特に印象的だった二組についてとりあえず書きます。

おそらくかなりまとまりのない文章になりそうですがご了承ください。

 

 

 

・杉本拓作曲『Septet』

演奏:杉本拓 (ギター) + 大蔵雅彦 (クラリネット) + 池田陽子 (ヴィオラ) + 池田若菜 (フルート) + マティヤ・シェランダー (コントラバス) + 入間川正美 (チェロ) + 宇波拓 (サイン波)

杉本拓の作曲作品『Septet』の日本初演となる演奏。

演奏時間は40分。

 

演奏はフルートとクラリネットが同じ音程で無理のない程度の長さの持続音を発するところから始まり、各楽器が徐々に同じく無理のない長さ(どれほど長くても10秒には満たないくらいだったと思います)の持続音で演奏に加わっていきます。

フルートとクラリネットは最初に発したものと同じ音程の音を、同じような要領で(おそらく任意の)間隔を置きながら演奏の終了まで発し続けます。

それ以外の楽器については持続音であることは変わりませんが音程は変化します。

この作品が微分音を用いたものである確認はとれていないのですが、フルートとクラリネットというこの編成の中で吹奏楽器に類する二つの楽器が、ひとつの音程の音しか発しなかったことから、おそらくそうではないかと思います。(楽器の構造、チューニングの問題で他の音程は周波数がズレてしまって使えないセッティングになるのではないかと推測します)

演奏が開始しそれぞれの楽器が演奏に加わり終わって少しの時間が経過するまで(おそらく演奏開始から10~15分辺りまで)は、例えば同じ音程を発するフルートとクラリネットの音色の違い、そのふたつの楽器の音にこちらも同じ音程で(いつの間にか)紛れるように加わり、ふたつの楽器の持続音が途切れると(音量はおそらく変わっていないにも関わらず)浮かび上がるように姿を表すサイン波の存在、不運にもこの当日にE-BOWが壊れたとのことで、この編成の中で唯一、発音から減衰していく純粋な撥弦楽器としての出音しか用いることができないギター、など、それぞれの楽器が発する音自体の性格に耳がいくのですが、ある程度の時間が経過するとそういった音に対するミクロな視点も飽和してくるというか、“音”以外の部分に意識が向いていき、耳よりも目や思考が優位にたつような時間が訪れました。

具体的に挙げると、視界では、ゆっくり弓を引くヴィオラ、チェロ、コントラバスの、ときに筋肉の震えが見えてくるような肉体的な負荷(スローモーションの動きを改めて生身の人間が真似する時のような感覚)の伝わり、楽器を口の位置から水平とは言わずともある程度それに近い位置、角度で保つフルートの演奏姿勢と、その保持による筋肉の硬直(演奏終了後に息を吐きながら首を回し、肩周りの筋肉をほぐすような動きをされていたのがその辛さを物語っているようでした)を感じとったり、それに基づく思考では、こういったゆっくり動くことや動きを止めることによって生み出される緊張感というのは、その肉体的な負荷を人間の身体が(意識的、無意識的であることに関わらず)感じとってしまうことによるいわば生体的、先天的な反応なのか、それとも歌舞伎、能、狂言など、ゆっくり動くことや動きを止めることを表現の内に多く用いる日本の文化とその下で育った人間(ただ私自身はそういった文化に親しんでいるわけではないので、この場合は無意識的な影響の下、ということになりますが)であることによる文化的、後天的な感覚なのか、ということなどです。

また、その視界から伝わるものが主に“負荷”だったことや、私自身は演奏中に耳以上に目や思考が優位になる状況があまり好きではないことから、先述したような考えをひと通り経過してからは結構な時間目を瞑って聴いていたのですが、そうすると音の聴こえ方も随分違ってくるように感じられたりもしました。端的に言うと柔らかい音色が心地いいミニマルな音楽として、アンビエント的な聴取が可能になるというか。視界から伝わってくる肉体が軋むような、マイナス方向への身体性とでも言えそうな感覚がマスキングされるというか。杉本さんの『Quartet / Octet』や、杉本さんとも交流のあるヴァンデルヴァイザー楽派の作品を、どちらかというとそういったアンビエント的な聴取だったり、身体性が曇りガラスの向こう側にボヤけて見えるくらいにしか感じられない音楽として楽しむ機会が多かった私としては、こちらのほうが自分なりのこの音楽への向き合い方としてしっくりくる感じもありました。

この作品は最初のフルートとクラリネットのみによるごくわずかな時間を除くと(ヴァンデルヴァイザー楽派の作品などでは多く用いられる)無音が続く時間はなく、常時何らかの楽器が音を発しているものだったのですが、やはり静かな音楽作品であることには変わりなく、聴衆に沈黙を要請するようなところもあって、そういった静かさへの意識というものは聴覚へも大きく影響を及ぼすようで、私、演奏中に足を組み替えた際に前方の椅子に少し靴が当たって“コンッ”という 音をたててしまって、それ、すごく小さな音だったと思うのですが私の耳にはめちゃくちゃ大きな音に聴こえたんですよね。これは音楽の外側で起きたことですけど、音楽に誘発された感覚の下で初めてできる体験であるとも言えそうですし、少し面白く感じてしまうところでもありました。(近くで聴かれていた方、ご迷惑だったらすみませんでした…)

あと、演奏中に感じたこととしては、音楽に対する聴衆の数や会場の規模について。正直今回のイベント、会場(スーデラ)、観客の数はこの作品に対しては少し大きすぎたのではないかと思いました。スーデラとFtarriの中間ぐらいが丁度いいんじゃないのかな、となんとなく。

演奏中に思ったこと、感じたことをとりあえず書き出してみたかたちなのでなんともとりとめのない文章になりましたが、この作品の今回の演奏について私が書けるのはこんなところですかね。作品の構造的なシンプルさが引き出す聴衆の一定時間内での、音(耳)をはじめとし、それ以外の部分にも波及する感覚の変化が面白い(そして恐ろしいとも言えそうな)ところなのかもしれませんね。

 

 

 

・ジョン・ブッチャー (テナー・サックス、ソプラノ・サックス) + ロードリ・デイヴィス (エレクトリック・ハープ)

 

これ目当てにわざわざ遠征したといってもいいくらい楽しみにしていた演奏。結論から言いますと期待にバッチリ応えてくれる演奏で最初から最後まで本当に楽しく聴くことができました。この二者の演奏についてはどういう風な流れの演奏だったとか、どういったところが驚きだったとか、そういう風なことを書くこともできなくはないですが、ちょっと今回は別の視点から。

イベント翌日に、ご自身も出演されていた杉本拓さんがイベント全体を振り返るかたちでされていたツイートで、ジョン・ブッチャーの演奏に言及されていた部分が非常に興味深かったので、まずはそちらを

 

 

 

 これらの発言についてというか、これらの発言に勝手に影響されて、私なりに思うところがあるのでそれを書いてみようかと思います。

まず最初の、ジョン・ブッチャーの演奏がテクニックの「カタログ」に聞こえるという点についてですが、これは私も彼の近作のいくつか(具体的に挙げるとソロ作『Nigemizu』やMark Sandersとのデュオ盤『Daylight』など)で最近特に強く感じるようになっていたところでもありまして、持ち前の様々な演奏上のテクニック、奏法を順番に披露していくようなスタイルはまさに「カタログ」と形容されてもおかしくないと思いますし、それは“即興演奏”という観点からするとどうなのかと。例えば今回の演奏中、彼は数度テナーサックスとソプラノサックスを持ち替えたのですが、毎回それまでにまだ披露していなかった奏法で演奏しある程度の時間演奏したうえで持ち替える、というパターンで、たらればですけどソプラノに持ち替えて何の変哲もないロングトーンを2回出してすぐテナーに持ち替える、なんてことは多分起きないんですよね。とにかくその場の思いつきで何が起こってもいいし、そうでなければ“即興演奏”とは言えない、なんて言ってしまうのは安易である意味偏狭だとすら思いますが、私個人はジョン・ブッチャーの演奏に前述した「たられば~」のような意味合いでの奔放さは求めていないですし、もしかしたら“即興演奏”である必要性すらなくて、なんらかの“完成された表現”のようなものを求めているのかもしれないなと思いました。例えばあの演奏がすべて予め決められた、“書かれた”作品の演奏だったとしても正直私はどうでもいいですし、それであの演奏の価値が落ちるとも全く思いません。

そしてそれらを踏まえて振り返ってみるに、今回の演奏は私にとっては“即興演奏”であることとは関係なく、ひとつの“完成された表現”のようなものとして素晴らしく、楽しめるものであったように思います。なにより演奏中、最初から最後まで、音を聴くことが楽しかったんですよね。International Nothingについてのツイートで、杉本さんはジョン・ブッチャーの演奏を引き合いに出すかたちで「こっちは「音楽」がまずある」と仰られていますが、私にとっては今回のジョン・ブッチャーとロードリ・デイヴィスの演奏は“即興演奏”であることなどの他のあらゆる事に先んじてまず“音楽”だったんですよね。

「なにが“音楽”的であるか」、というのは人それぞれ違うと思いますが、私にとって音楽というのは、究極的には聴いている間あらゆることを忘れさせてくれるもの、その間は何も考えなくていい(考えることができない)もの、なんですよね。そういう意味で、例えば先に長々と書きましたけど、同日の杉本さんの『Septet』の演奏などは“音楽以上”の、自分の手に余る代物に感じてしまうのが正直なところです。なのでそういった作品を書かれる杉本さんがジョン・ブッチャーの演奏に対してこういう見方をされるのは、私のほうではなるほどな、と勝手に納得のいくものでもあります。

 

私は音楽について考えることと音楽を聴くことをあまり上手く同時に出来ない質で(そのため『Septet』の演奏中は思い浮かんだあれこれのほうに意識が向いてしまい音があまり耳に入っていない時間が結構ありました。その点ジョン・ブッチャーとロードリ・デイヴィスの演奏は音から意識が離れる瞬間が全くなかったです。)、今回の文章も書き始めてから集中して音楽を聴くことができない状態になってますし、何より音楽を聴くことがまず好きな人間なので、ここまで書くのも(この程度のことですら)結構苦痛でした。音楽を聴くことの楽しさに加え、それについて考えるということにおいても示唆に富んだ素晴らしいイベントでしたが、今はやっと自分の中でのFtarri Festivalに区切りをつけられたとほっとする気持ちのほうが大きいです。長い割にまとまりのないものだったと思いますが、最後まで読んでくれた方、ありがとうございました。